
今から
49年前の1959年1月28日、ロシア(ソビエト連邦)ユーラス、
”Kholat Syakhl(別名:死の山)”から約10km先にある”Otorten”へ向けて
10人の大学生がスキー遠征に出発した。
この地方の冬の山は寒さが厳しく、例年通り天候も思わしくはなかったが、彼ら
全員がクロス・カントリーの経験があり、雪山に対する知識も豊富だった。
ユリ・ユージンはこの遠征に参加した一人だったが、
体調不良に見舞われたために遠征を断念、途中のVizhaiに残ることにした。
後にこの体調不良が
彼の命を救うことになるとは本人も夢にも思わなかった。

23歳のイゴール・デャトロフ率いる、
残る9人の学生達は2月2日17:00頃、Kholat Syakhlの北の斜面でキャンプを設営した。
通常、雪山の斜面にキャンプを設営することは
雪崩に巻き込まれる可能性等を考えるとあまり好ましい選択とは言えないのだが、Otortenを目の前にして
キャンプ地を他に探す時間を惜しんだのか、
訓練のために斜面にキャンプを設営することにしたのか、はっきりとした理由は分からないとユージンは話す。
彼らの
予定では2月12日(多少の遅れは予想されるが)にはユージンの待つVizhaiに戻るはずだったが、
2月20日になっても戻らず、同じ学校の教師や他の生徒らで
救助隊が編成され、彼らの捜索が始まった。
彼らの捜索には地元のボランティアや警察、軍等も協力して行われ、不幸にも
2月26日、救助隊は最悪の事態を目の当たりにするが、事態は最悪という言葉を超越する謎に包まれていた。
- 斜面に設営されたテントは内部から半分に引き裂かれていた
- 発見されたテントの中には誰もおらず、彼らの靴、スキー用具等は残されたままだった
- テントの周りには人間の足跡があったが、裸足もしくは靴下を履いただけのものだった
- 照合された足跡は9人以外の人間のものではなかった
- 幾つかの足跡はテントから離れて森の方へ向かっていたが、約500m後に忽然と消えていた
- 2名の遺体が森の端の松の木の下で発見されたが、彼らは裸足で下着しか身に付けていなかった
- テントの近くで火を起こした形跡があり、木の枝が約5mの高さまで伐採されていた
(これは誰かが遠くを見渡すために木に登ったものと推測される)
- 3名の遺体が森とテントの間で発見されたが、彼らは森からテントに戻ろうとしていた途中で息絶えた
- 発見された5名は解剖の結果、低体温症で死亡したと診断された
(1名の頭部に打撲が見られたが致命傷ではなかった)
- 残る4名の遺体は約1か月後、2名の遺体が見つかった松の木から更に75m離れた場所で発見されたが、遺体は4mもの雪に埋もれていた
- 4名のうち1名は頭部が潰れており、2名は肋骨が数本折れ、残る1名は舌がない状態で発見されたが、その他の目立った外傷はなかった
(野生動物に襲われたりしたものではないと推定)
- 遺体の衣服等から高濃度の放射線が検出された
- 後の証言で最初に発見された5名の遺体の皮膚は日焼けしたかのように茶色に変色していた
夜間には
零下30度に達する雪山で防寒具を身に付けず、しかも裸足同然の状態でテントから出るとは常識では考えられず、テントから逃げ出さなければならないような
よほどの事態が発生したと推測されている。
また、彼らの直接的な死因はそれほど不自然ではないが
遺体の状態は常識を逸脱している。
体調不良が幸いして一命を取り留めたユージンは、彼らの死に納得できずに長年独自に調査を行っていたが、調査を進めるにつれ
謎は解明されるどころか一層混迷を深めることになる。
事件当時は機密扱いとなっていたが、その後に公開された資料の中に、学生らが不可解な死を遂げた日に
”オレンジ色に輝く球”が飛んでいるのを彼らのキャンプから約50km離れた地点で目撃した人達がいるとある。
ユージンはこの
”球”が爆発して彼らのうちの4人を殺害、残る5人を極寒の環境に追いやったのではないかと考えている。
この”球”の正体は全く想像がつかないが、ちょうど同じ頃にカザキスタンにミサイルの発射場が建設されている。
ミサイルが発射されたと言う記録は一切ないが、
極秘に発射されたミサイルが運悪く彼らのキャンプ地に被弾した可能性は捨てきれない。
また、この時代のソビエト連邦では
軍が極秘に兵器の実験等を頻繁に行っており、何らかの
兵器の実験に運悪く居合わせたのではないかと言う説もある。
政府機関か軍が関連したことを示唆する証拠として、膨大に集められた物証の中に、
死亡した学生らが持っていなかった服の切れ端(兵士のコートの一部とみられている)、サングラス、スキーもしくはその一部があったとする証言が存在したり、非公開であった軍の資料の中に、正式に彼らの捜索が行われた
2月20日よりも2週間も早い2月6日に軍の部隊がこの地域に入って何らかの調査を行ったことを示す文書の存在等がある。
こうしたパズルの断片が見つかってはいるものの、いずれも決定的な証拠に欠け、今でも
この事件の真相は解明されていない。
彼らが命を落とすことになったキャンプの設営地は
”ルート・デャトロフ”と名付けられてはいるものの、いずれは
人々の記憶からこの事件は忘れ去られてしまうだろうとユージンは寂しく語っている。
元記事
posted by ashineko at 07:35|
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